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小平では五時の音楽が「七つの子」でしたが、国立の「ラルゴ」もなかなか良いと思っている今日この頃、皆さん元気ですか。私はまあまあです。
ふと思ったんですが、自分の思考に限界を感じたことはありませんか?私の考えは、私のオリジナルなものではなく誰かの受け売りであって、またその誰かも、いくつかの既存の思考体系の中から継ぎはぎ足したりしたものを自分のものにしていて・・・その繰り返しだと思いません?
小説や映画だって、「時代」と「場所」と「テーマ」と「登場人物」と・・・既存の思考から、あらゆる背景のパターンを組み合わせれば、確かに違う小説は出来上がるけれど、全く新しい!!新鋭!こんなの見たことない!なんて世界観を540度変えるようなのなんて、めったにないですよね。
なぜこんなことを思い始めたかというと、「世界の真ん中がなんたら」とか「消しゴムがなんたら」とかいう、大衆向けに様々な色をつけたファストフードのような映画が私は大嫌いで、「みんな同じジャン!」と言う感想しか持ち合わせておりません。・・・・・・・そして、亀有派出所の漫画でも、「最近のヒット曲は皆同じようなものだから、ヒットした複数の曲からメロディを少しずつ繋ぎ合わせて、また売れる曲を作るぞ」みたいなことを両津が言っており、ファストフード映画はそれに似ているのだなと思い始めたからです。
そして、そういった映画は、パターンの組み合わせが単一的で、次元が狭く、新しい物を作ろうという意欲に欠けているのではないかと。
まあ、そこから「それでは全く新しい思考とは何だ??」と思い始めて、昨日の夜はずっと考え込んでたわけですが。。(その点でいえば、ファストフード映画も、私に問題提起をしてくれたので、意義がありましたね。)
で、話に戻ると、思考開発のために、10%しか使っていない人間の脳を、100パーセントにしたら新しいものが生まれてくると思いませんか?しかも、脳ってカロリー消費するからスリムになれる なんて考えて、世界の医学に多大な期待を寄せていたわけですが・・・
いや、でもまてよ。。。人は全速力で走ったとしても、70パーだかしか能力を発揮することが出来ない。もし100パーで走ったら全身疲労になったり骨折したりして、命にも関わるという話も聞いたことがあります。(うろ覚え)
もしも、英知を求めて100パー能力発揮したら、命に関わるだけでなく、天才が多すぎて世界をも滅ぼしてしまう力を持つのではないか・・・・!?
なんか、方向性としては現代版ファウストと言う雰囲気がしなくもないですか?100パーセント能力を発揮するということが、つまり悪魔に身を任せると言うことなんではないでしょうかね。
あ~何を批判してるのか良くわからない文章になってきましたが、私の言いたいことは、夏までに痩せたいという事と、世界の有限性は理解しつつもちょっとでも良いから私も背伸びしてみたい、ファウストの気持ちも少しわかると言うこと。そして、感動系映画において、もうちょっとその有限性にギリギリに近づくような、あっという映画を見てみたい、ということです。
私は結構、食事中にゲロ発言されても、それほど気にならないのですが (デリカシーの欠如による。) これからは、うっかり「嘔吐」とか「吐く」とかも言わないように、気をつけたいと思います。ご迷惑をおかけした皆さん、おりましたら、すみませんでした。私を切らないでください。
でも、ゲロっていう表現は、かなり抽象的じゃないですか?げろげろげろっぴとか、ゲロッパとか連想して、くすっと小悪魔的な微笑を一つしてみたくなりませんか?
ちなみに、私の家庭では、皆ゲボって呼んでて、こっちのほうがかなり擬声語風でリアルでしたよ。げぼげぼげぼっぴは、う~ん・・・・汚いですね。。
なんでこんなこと書いてるんでしょう。食事中の方はすみませんね。お口直しにどうぞ
http://www.youtube.com/watch?v=32zMqGaqApg
ふるさとは遠きにありて思うものそして悲しく歌ふもの
よしや うらぶれて異土の乞食となるとても 帰るところあるまじや
ひとり都のゆふぐれに ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて 遠きみやこにかへらばや 遠きみやこにかへらばや
・・・・・今日は久々に、良い詩を見つけました。
そろそろ私も常識を身につけなければ~、と思い買った常識本の中に、この詩の筆者は誰か、という問題で載っていたものです。室生犀星の「小景異情」と言うものらしいです。
最初のくだりだけはどこかで見たことがあったものの、改めて全部読むと、あ~~・・・てなりますね~。
いや、本当、帰りたいです。松島に、てか子供の頃に。
今の‘汚れちまった’心のままでタイムスリップして幼少時に戻ったとしても、全く意味がないのであって、やっぱり空間的にだけではなく時間的にも「遠い」立場にあるからこそ、つまり大人になって二度と子供の頃の心には帰れないとわかっているからこそ、ふるさとは想うべき対象となるんですね~。
四十年後の私は、今の東京での大学生活を想っているのでしょうか。
いや、四十年後、私、不健康な生活が祟ってこの世にいないかもなあ・・・・・。
で、ウィキによると、桃太郎は現在、現代の価値観が多様化・変化したことによって、批判がぼちぼち出ているようです。まあ、よく言われるところだと
→最後に財宝を得てめでたしめでたしは、金銭至上主義。
→鬼から暴力で財宝を奪うな。楽するな。
→ジェンダーバイアス
などなどが挙げられています。で、その解決策として
→鬼と桃太郎は話し合いで解決。宝も村人に分ける
→桃子(メス)が鬼と肉弾戦
→もともとぐうたらな桃太郎だって、鬼を倒してヒーローになれる、という教訓付き
というように、話が一部私の世代が知ってるものと少しずつ変わっているものもあるそうです。
これって、童話のジャンルにおける社会学だよね?
私は、社会に応じて話も変化してゆくことに関しては、否定も肯定もしていません。ま、「赤ずきん」に関して言っても、これだってもともとの話は、狼が少女と婆さんを食べてめでたしめでたしなんだからね。
ただ、あんまり大人がこだわって、不条理とレッテルで貼られたものを隠してしまうのはどうかと思います。
綺麗なところだけ子供に見せてさ。。子供は成長したときに、童話の理想像と、汚い現実にギャップを感じ、フラストレーションが募るでしょう。
「大人なんて!盗んだバイクで走りだしてやりたいぜ!」
で、話に戻るとさ、それって逆に言えば、行き過ぎると価値観の多様性を守るはずなのに、それにそぐわないものがあると、あれもだめ・これもだめとなって、逆に多様性を制限する結果になると言うこと。
私の母校は、ジェンダーだかなんだか知らないけれど、それに巻き込まれてじきに共学になります。実際共学推進派は、多感な時期を男女ともに過ごさなければならん、とか別学は差別を生むとか言ってるけど、とりあえず後者の意見は論外。。死んで良いよ。。。。で、前者の意見だって、その現代の潮流から言えばそう言う意見も出ましょうが、宮城に別学がなくなると言うことは、別学の選択が制限されたと言うことになります。多様性を殺してます。
宮城に別学しかないなら共学を作るのは大切だけれど、共学だって沢山あるのだから、わざわざ別学を無くさなくても良いじゃない。
ともかく、私の母校は無くなりました。悲しいです。
最後に、桃太郎の現代バージョンを統合すると、
「毎日ぐうたらの桃子が、鬼と肉弾戦。たまに、鬼に対して説得しながら涙する。そうやって鬼を倒し、桃子はとりあえず、金じゃない報酬を受ける。(愛とか、友情とか。臭い臭い。)いつもテストで0点の桃子も、頑張ればなんとかなる!良かったね!」
これってセーラームーンじゃね?セーラームーンも現代の賜物なのね。
あれって、人の本性的なものが見えて少し面白いですね。一橋寮時代、寮の大コンパの後の片付けの時間、他のブロックの寮委員の女の子が、皆でやってる片付けそっちのけであまった食べ物を皿につめてたのが印象的でした。。
まあ、でも、食に関して余裕のある在京の学生が多いこと、かつ先輩・後輩の関係の存在など種々の要素が絡まって、その儀式の様相は寮のそれとは少し違ってきます。
とりあえず、先輩が「ケチャップいらない?」と皆に勧めると、その場には、皆が遠慮してるのか遠慮してないのか知らんが、しばし沈黙の重~い雰囲気が流れます。。ここで考えられるのは
①本当にいらない。→→その場合、先輩の言葉は「誰かもらえよ。」という圧迫に変わり、[責任の分散]が起こっ て、皆「誰かもらうっしょ。」と考える。そのため、沈黙で場をすごす。
②欲しいけど言い出しにくい
③どっちでも良いけど、言い出しにくいから名乗り出ない
②③→→いや~、皆遠慮深いですなあ。
でも、私、沈黙の打開のために、ケチャップ二つとお好み焼きソース三つとマヨネーズとチョコシロップと油と卵六個の所有を志願したんだけど、皆それを私が望んでいるわけではないことをわかっていますよね?
てか、その儀式は、半ば友人が私の持ってた袋に、それら余り物を押し込むことで強制終了させられた形となっております。
ということで、②③の皆さん、いやあ、本当、、遠慮しなくていいよー。取って食いやしないから。。。
私も一年だったとき、先輩のおごりを奥ゆかしいことと思って断ったら、むっとされました。先輩からの勧めはとりあえず受け取るのも、うまくやってくための手ですよ~。(・・・と人間関係をうまく結べない私から、言われても説得力は皆無。)
最後に後輩から「いや~、先輩収穫ですねえ。」とにっこり微笑みかけられたのが、次回も私に調味料の大量の余り物が回ってきそうなことを予感させております。